今日は、セオリツヒメのお話の前に、アマテルカミの后たちについて書きます。これからのお話に名前が出てきますので、前回の補足になりますが、ここはしっかり押さえておきたいところです。
佐久那太理・瀬織津姫 (サクナダリ・セオリツヒメ)。
また「あまさかるひ (天下がる日/陽陰下がる霊/和栄る日) に向かつ姫(ムカツヒメ)」。
サクラウチの娘。 斎名(本名):ホノコ。
アマテル南の典侍、後に内宮(正后)に昇格。九代目アマカミ オシホミミの母。
サクナダリは「勢いよく落ちるさま」で、アマテルカミが階段を踏み下りるさまを言うようです。また、セオリツは「背下りつ」で、背は夫、つまりアマテルカミが階段を踏み下りて内宮に入れたことを意味するということです。
アマテルカミには、正后瀬織津姫の他に12人の后がいました。大祓祝詞に登場する速秋津姫もその一人です。古事記では、速秋津比古神・速秋津比売神と夫婦の神として登場しますが、12人の后も瀬織津姫と同様に、天照大御神を女神にしてしまったために、おかしな当てられ方をしています。
もちろん、瀬織津姫の名前は古事記にも日本書記にも全くでてきません。
↑アマテルカミの后と出身、そしてその子供たちです。見にくいので画像をダウンロードして見てください。
このように、アマテルは12人の各地方の有力な家の姫を東西南北の各区画(局ーツボネ)に置いたわけです。
「典」(スケ、スケキサキ)というのは天皇の后(キサキ)の内の最上位という立場です (典侍(スケ) → 内侍(ウチメ) → 下侍(シモメ))。これはアマテルに始まる制度で、正后である内宮は典侍の中から選ばれました。
ですから「南の典侍」であった瀬織津姫(以下ホノコと書きます)が正后(内宮ーウチミヤー中心・核といいますか万物を発する根源のような意味。)に昇格したことによって、後任に「ナカコ」が入ったということです。
アマカミを日、内宮は月、他の后は星々に例えます。内宮は東西南北の局を統率管理し、他の后達は内宮に逆らうことはできません。
恐らく・・・ですが、各方面から妃候補が余りにも多くて断り切れなかったと言いますか、おさまりがつかなかったので、こういう制度にしたのではないかと思います。実際は、アマテルカミの子供を沢山授かろうという謀略だったのかも知れませんね。
では、ホツマツタエの記述を引用します。
ミコトノリ カンミムスヒノ 御言宣 カンミムスビの
ヤソキネカ モロトハカリテ ヤソキネが 諸と議りて
クラキネカ マスヒメモチコ クラキネが マス姫モチコ
ネノスケト ソノトメハヤコ 北の典侍と その妹姫ハヤコ
コマスヒメ ネノウチキサキ コマス姫 北の内后
ヤソキネノ オオミヤミチコ ヤソキネの オオミヤミチコ
キノスケニ タナハタコタヱ 東の典侍に タナハタコタヱ
キノウチメ 東の内侍
サクラウチカメ サクラウチが姫
サクナタリ セオリツホノコ サクナタリ セオリツホノコ
サノスケニ ワカヒメハナコ 南の典侍に ワカ姫ハナコ
サノウチメ 南の内侍
カナサキカメノ カナサキが姫の
ハヤアキツ アキコハシホノ ハヤアキツ アキコは潮の
ヤモアヒコ ツノスケウチハ 八百会子 西の典侍 内は
ムナカタカ オリハタオサコ ムナカタが オリハタオサコ
オシモメハ トヨヒメアヤコ 乙下侍は トヨ姫アヤコ
カスヤカメ イロノヱアサコ カスヤが姫 イロノヱアサコ
サノオシモ 南の乙下
カタカアチコハ カダがアチコは
ネノオシモ 北の乙下
ツクハハヤマカ ツクバハヤマが
ソカヒメハ キノオシモソト ソガ姫は 東の乙下ぞと
ツキニヨセ 月に寄せ
ミコハアマヒノ 御子は太陽の
クラヰノル ヒノヤマノナモ 位乗る 日の山の名も
オオヤマソ カレオオヤマト 太山ぞ 故 太山下
ヒタカミノ ヤスクニノミヤ 日高みの 和国の宮
キツサネノ ツホネハカワリ 東西南北の 局は替り
ミヤツカヱ 宮仕え
ソノナカヒトリ その中一人
スナオナル セオリツヒメノ 素直なる セオリツ姫の
ミヤヒニハ キミモキサハシ ミヤビには 君も階段
フミオリテ アマサカルヒニ 踏み降りて 天下がる日に
ムカツヒメ ツヒニイレマス 向つ姫 つひに入れます
ウチミヤニ 内宮に
カナヤマヒコカ カナヤマヒコが
ウリフヒメ ナカコオスケニ ウリフ姫 ナカコを典侍に
ソナヱシム コレオコヨミノ 備えしむ これを暦の
ウリフツキ ウリフ月
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